西宮市100周年カウントダウンキャンペーン

西宮市100周年カウントダウンページと西宮市公式インスタグラムのストーリーにて水間印刷のカウントダウン画像が公開されました!
画像にあった手書きの7|3の意味はおわかりいただけたでしょうか?!
実は73日と髪型の7:3分けをかけていたのです!
また、この百の字は私がオリーブ色の用紙に白墨で書いたもので、1.4m×1mの大きさの作品です。月末まで西宮阪急ガーデンズの無印良品様のサブエントランスに掲示頂いております。
よろしければご覧ください。
それはさておき、水間印刷では西宮市100周年カウントダウンに参加できたことを記念して
割引キャンペーンを開催いたします!
名刺・封筒の印刷に関して「HPのカウントダウンキャンペーンを見たよ!」と言ってくれた方に
お見積もり金額から500円引きさせていただきます!
普段お取引のある事業者様も、初めて印刷物を頼みたい方も、個人の方も、是非この機会に水間印刷で名刺や封筒を作ってみてください!
※ご依頼の際に「HPのカウントダウンキャンペーンを見たよ!」をお願いいたします。
※キャンペーン対象は1事業者様につき1回のみとなります。
※キャンペーンは3月末日までにお申し込みの方限定となります。
弊社も今年の6月でこの西宮で印刷をさせて頂いて55年になります。
これも偏に地域の皆様方やたくさんの方々のおかげと常々感謝しております。
今、丁度17日の朝5:14分で、予約投稿で記事を書いております。
100年以上前この場所は、武庫郡西宮町と呼ばれていたようです。
それが、市制が布かれ、西宮市用海町になり、さらに用海町の一部だったこの場所が石在町になって現在に至っております。
この辺りは大阪と神戸の真ん中に位置し阪神間と呼ばれています。
言葉は大阪弁でも神戸弁でもない独特の柔らかい言い回しで、私はとても気に入っています。
また、人もやさしい人が多く、非常に住みやすいところです。ある友人は『なにもかもが丁度いいまち』と言っています。
私も3年間のサラリーマン時代、東京や岐阜、大阪にいた以外はずっとこの西宮で生活しているので他の町のことはあまり知りません。
それでも、このあたりはいいところだと心の底から思います。
阪神淡路大震災から今日で30年になります。阪神淡路の時もこのまちの人たちにどれだけお世話になったか分かりません。
そんなこのまちのため、また西宮のためにできることを少しでもしていけたらと念願しております。西宮市制100周年の応援も頑張りたいと思います。
それで少し阪神淡路大震災のことを振り返ってみたいと思います。
阪神淡路大震災のこと
30年前の30分後5:46分に阪神淡路大震災があり、弊社は全壊しました。
私はその時大学の3回生で、この場所で朝早く起きて書道をしていたんです。
ものすごい揺れを感じ、思わず立ち上がりましたら、すぐに後ろの襖がぶつかってきて地面に突き落とされ、急いで隣の部屋の机の下に潜り込んだところに大きな開戸が開いて中からドレッサーが何本も飛び出して机の上に落下してきて…祖父と祖母が和ダンスの下敷きになりかけたところを間一髪助かったのが本当に運が良かったんです。怪我をしたのは母で、2mくらいのところにあったタンスのガラス戸の中にあったガラスの貯金箱が頭を直撃し、貯金箱の方が割れたから良かったものの頭が割れていたら大変でした。ずいぶん長いこと頭を洗ったら中からガラスの小さな破片が出てくると言っていたのを思い出します。
店舗付き住宅でしたので、1Fの仕事場に降りようとした父は階段が抜け落ちているのが見えずに手すりを持った状態で宙ぶらりん。ハシゴが持ってこられるまで家族はみんな2Fで待機。脱出をしたのは明るくなってからでした。外から家を見ると完全に1F部分が折れていて、隣の家にもたれかかったようになって止まっていました。もうどうしようもない状態で家も店も全壊し、この日から近くの用海公民館にご厄介になることになりました。隣の方が大変なことになりましたねと泣いて下さいました。
印刷機はハイデル社が預かってくれて、製版機はダイヤミック社が預かってくれた上無償で何枚でも大阪のショールームで製版をさせて下さいました。当時毎日小さい版を20版くらい多い時には50版くらい焼いていましたので、ダイヤミック社には深い感謝しかありません。学生だった私は、毎日電車に乗って製版に行き、借りていた文化住宅で小さな印刷機で母が名刺を何十箱も印刷し納品。それ以外の印刷物は父が協力会社に依頼をする毎日でした。3回生の前期で単位が揃ってほぼゼミのみだったのを幸いに、結果的に震災の日から1年3ヶ月間、大学にはほぼ行かずに印刷の手伝いや荷物の片付け、新しい店舗付き住宅のこと、就職活動などをしながら卒業することになります。
大量の荷物は、会社のある石在町内のプロカラーラボさんが預かってくださって、本社の1Fの駐輪場の大部分を開放して下さいました。これも長いことご厄介になりました。当時の荒川臣男社長には感謝しかありません。同じく石在町内の丸信製材さんも所有する建物の1フロアーを全部無償でお貸し下さいました。それから別に借りていたもう1軒の文化住宅にも荷物を置いていました。全壊した家を合わせると荷物は7ヶ所に分散されていました。何も仰らずにお助け下さったたくさんの方々のおかげで何とか辛うじて今日を迎えております。
人間生身の体、いつどのようなことがあるか分かりません。ただ今日を感謝して生きるのみです。生きている以上はこうして助けて下さった方々の恩を少しでも周りの人たちにお返しできるようにしたいとその時思いました。しかしそのようにはなっておりません。苦労して育ててくれた父母に少しでも楽をしてもらいたいと印刷を手伝って頑張ってきたものの、これも今のところそうはなっていません。この前母にその話をすると、『まだ分からんやんか』と申しました。
よく考えますと何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく人生、自分は少しでも毎日おであいする家族や周りの方々に少しでも笑顔になってもらえるようにしたいなと何ともないただの印象だけでもいいから、みんなを少しでもよかったなという気持ちになってもらえるような何かを置いて行きたいと思っております。
私の祖父で創業者の水間勝之進は、2ヶ月後に竣工する店舗付き住宅を視察に来てくれてから何十日か後、震災の年の12月30日に96歳で避難先で肺炎になり他界しました。55歳で当時西宮東口にあった九十九堂印刷を定年退職してから水間印刷所を創業し、90歳を過ぎても印刷機を回していた祖父のように生涯現役で頑張れたらと思っております。
水間印刷所は、これまでもこれからも少しでも良いものをまごころをこめてつくり、お客様に少しでも笑顔になって頂ける仕事を目指していきます。